オホーツクの風が吹きすさぶ標津町。ここは一万年、鮭と人がともに生きてきた「鮭の聖地」です。
その町に、一風変わった名前を掲げる会社があります。株式会社「しゃけを」。代表の椙田圭輔(すぎた・けいすけ)さんは、自らを「しゃけを」と名乗り、地域の未利用資源を新しい価値へと編みなおしています。

取材が始まるやいなや、意外な言葉が飛び出しました。「僕、そちらの島根の町(大田市大森町)が大好きなんですよ。温泉津(ゆのつ)温泉なんて、日本で一番好きかもしれません」。私たちの拠点である石見銀山の風景や、地域の文化を大切にする企業の在り方に、以前から共感してくださっていたそうです。
「田舎の価値を都会に届ける。その伝え方を大事にする姿勢に惹かれます」。そう語る椙田さんもまた、標津という地で、失われつつある「原風景」を守り、未来へ編みなおそうとする一人。今回は、ゴミ扱いされていた魚を「魅了魚」へと変え、地域の未来を切り拓く、椙田さんの熱い想いに迫りました。

地域愛が原点。漁師が持て余し捨てられていた「未利用魚」との再会
—— まずは、未利用魚である「カジカ」に光を当てた背景を教えてください。
椙田さん: 一言でいうと、めちゃくちゃ強い「地域愛」ですね。これ、両親の影響が大きいんですよ。僕の事務所の横に「ポー川史跡自然公園」っていう場所があります。そこは、ゴールデンカムイの世界観みたいに、昔の農家や漁師の暮らしが残っている場所。僕の親父はそこに初めて赴任した学芸員で、最後は館長をやっていました。
そんな環境で育ったから、地域の文化や自然に触れる機会が多かった。この場所が好きだっていう気持ちが、僕の原点なんです。ただ、それだけ大好きな地元だからこそ、ビジネスを始めるのは正直怖さもありました。知っている人ばかりの場所で失敗はできないというプレッシャー。でもその恐怖を「地域愛」が上回り、事業に踏み切りました。

—— カジカは、地元ではどんな存在だったんですか?
椙田さん: 標津は「鮭の町」です。でも近年、鮭の漁獲量が激減しています。昨年2025年も、最盛期の数パーセントまで落ち込むという厳しい状況が続きました。そんな中、網にかかっても捨てられていたのがカジカです。浜値ではわずか1キロ5円。調理に手間がかかるし、知名度も低い。漁師さんにとっては、網から外すのも面倒で、扱いに苦労する存在でした。
そんなカジカですが、私にとっては特別な存在でした。子供の頃、釣って家に持ち帰ると、母親が味噌汁にしてくれたんです。それがもう、震えるほどに美味しくて。「鍋を壊すほど旨い」から「鍋壊し」って呼ばれるくらいの魚。グロテスクな見た目に反して、味はとても優しくて、他の素材を邪魔しない。こんなに美味しいのに、捨てられているのはおかしい。このストーリーがある魚なら、本気で売れば戦えるって確信したんです。

「だし屋」でも「グミ屋」でもない。地域の未来を創る会社
—— 最初の商品に「だし」を選んだのはなぜですか?
椙田さん: マーケティングの視点ですね。 標津のような「ど田舎」で事業をするなら、通信販売は必須です。 だしは軽くて、賞味期限が長い。そしてリピート性が高い。九州のあごだしが伸びているのを見て、「北海道だって負けてないぞ!」って思いました。いつか、「長崎にはあご、北海道にはカジカ」と言ってもらえるくらい認知度を上げていきたいんです。

—— でも、未利用魚をだしにするのは大変だったんじゃないですか。
椙田: 大変でしたね。カジカって生臭さもあるんですよ。それを解決したのが「高温高圧焼成法」という特殊な製法です。魚を丸ごとプレスして、一瞬で高温の焼きを入れる。そうすると、生臭さが消えて、香ばしさが立つんです。さらに、細胞壁が壊れるから、通常の1.5倍から2倍のだしが出る。骨ごと粉砕するから栄養価も高い。これならいける、と確信しました。
最初は地元の道の駅からのスタートでしたが、口コミで少しずつ広がり、『北海道おみやげグランプリ』で準グランプリをいただくこともできました。自分が感じていた「カジカのポテンシャル」が評価されたことを嬉しく思っています。

—— 「いのちを使い切る」という執念を感じます。
椙田: 単なる地域貢献のポーズじゃないんです。本気で売りたい。継続しないと意味がないですからね。漁師さんたちも、最初は「なんでカジカなんだ?」って感じでしたけど、実際にお金が動いて、商品が評価されるようになると、少しずつ信頼関係が深まっていく。厄介者が「地域の誇り」に変わっていくプロセスが、僕はたまらなく好きなんです。

—— その次に発売したのが「グミ」でした。これには驚いた人も多かったのでは?
椙田さん: 「方針がブレてるんじゃないか」って、今でもよく言われます(笑)。でも、僕の中では一本の筋が通っているんですよ。僕たちは「だし屋」でも「グミ屋」でもありません。「これからの地域を創っていく会社」なんです。

—— グミにはどんな戦略があったんでしょう。
椙田さん: 実務的な話をすると、営業効率です。 僕たちの主な取引先は道の駅やお土産屋さん。だしだけだと売上の伸びに限界があります。でも、お土産マーケットではお菓子の方が圧倒的に手に取ってもらいやすい。
それに、だしの匂いが染みつきすぎるのも良くないなと思って。若い世代に「なんか面白そうな会社だな」って興味を持ってもらう入り口として、グミは最適だったんです。実際、グミを出してから採用への問い合わせも増えました。「北海道グミ」は、北海道の行ったことのない地域からかじることで、「北海道はこんなに広いんだ」と実感してほしいという想いから生まれました。

日本一を経験した「アメフト」の逆算思考
—— 椙田さんの経歴を拝見すると、学生時代のアメフトでの活躍も目覚ましいですね。
椙田さん: 立命館大学でアメフトをやっていて、日本一も経験しました。その経験は、今の経営にめちゃくちゃ活きていますね。特に「逆算思考」です。試合という目標があって、相手を分析して、今何をすべきかをステップに落とし込む。この思考プロセスは、アメフトで叩き込まれました。
—— 困難な状況でもやり抜く「グリッド(やり切る力)」もそこで?
椙田さん: そうですね。当時は動物園みたいな、キャラの濃い奴らの集団でした(笑)。トップレベルの集団にいたことで、達成感や自信がついた。「俺らならできる」っていう根拠のない自信というか。あとは人脈ですね。当時の同期や後輩が、今でもいろんな人を紹介してくれて助けてくれています。
—— 未利用魚の活用は一筋縄ではいかないはず。それでもやり抜ける理由は?
椙田さん: 漁師さんも加工場も、鮭が獲れなくなって危機感を持っています。 2018年には、海の豊かさを守り続けようと、地元の漁師たちによる「波心会」も立ち上がりました。このままじゃ産業が壊れてしまう。だから、僕は彼らと共に新しい産業を作らないといけない。カジカを価値あるものに変える。「できない」と言われてきたことに挑戦するのが、僕の役割だと思っています。

「魅了魚」へ。10年後の景色をデザインする
—— これから10年、20年先、標津をどんな町にしていきたいですか?
椙田さん: いま、環境の変化を最前線で感じています。雪が減り、海温が上がり、獲れる魚が変わってきている。酪農地帯だった場所で米が作れるようになるかもしれない。僕はこれを「嘆きと可能性」と呼んでいます。
僕が作りたいのは、自分の手で世界を切り拓ける若者が増える景色です。「経験と場」が人を育てます。標津に、世の中の新しい動きを体感できるような「基盤となる会社」があれば、それが学びの場になる。そこから地域の文化が生まれ、循環していくんです。

—— 具体的な事業のロードマップはありますか。
椙田さん: まずは生産量を上げるために工場を移設したい。理想は、自社の「だしの工場」を持つこと。北海道内にはティーパックの工場がほとんどないので、ここが拠点になれば強い。さらに、各地の後継者がいない工場を事業承継していくようなモデルも考えています。あとは、ここを目的地にしてもらえるような直売店も作りたいですね。関東にも拠点を持って、大消費地で戦える体制を整えたい。
—— それを実現するためには、やはり「人」が必要ですね。
椙田さん: まさに、人ですね。工場長候補や品質管理、マーケティングができる人材。田舎での採用は必死です。地元のサウナで「人がいないんだ」って言い回って、2人採用が決まったこともあります(笑)。でも、うちは標津に住んでいなくても関われる「関わりしろ」を大事にしたい。東京や大阪のメンバーもいますし、フルリモートで企画に関わってもらうこともできる。

自信に満ちた笑顔があふれる世界へ
—— 最後に、椙田さんが理想とする「地域の風景」について教えてください。
椙田: 僕は、みんなが「自信のある顔」で笑っている世界がいいなと思っているんです。表面的にニコニコしているだけじゃなくて、自分の人生で何かをやりたいと思って、それを少しでも成し遂げている人の顔。強さのある笑顔。
—— 自信のある、強さのある笑顔。
椙田: 小さなことでもいいんです。「自分はこれをやってきた」という自負を持って生きる。そういう人が増えれば、町の空気はもっと明るくなる。僕はそのための「空気のスイッチ」でありたい。未利用魚という「影」を、未来という「光」に変えていく。その一歩一歩を、これからも愚直に積み上げていくだけです。

—— 椙田さんのその「覚悟」、しっかりと受け取りました。今日は本当にありがとうございました。
編集後記
「未利用魚」という言葉を、「人を魅了する魚=魅了魚(みりょうぎょ)」へと編みなおす椙田さんの挑戦。それは、かつて鮭の聖地として栄えたこの地を、次の100年へ繋ぐための新しい生態系の再構築そのものでした。標津の厳しい、けれど豊かな自然の中で、自信に満ちた笑顔が一つ、また一つと増えていく。 その風景は、きっとこれからの日本の新しい原風景になるはずです。